酒と豊穣の神・バッカスに仕える巫女、HALがお届けするお酒にまつわる物語
 
 

男はもはや孤独を怖れる必要がなかったのです。彼自らが孤独自体でありました。彼は初めて四方を見廻しました。頭上に花がありました。その下にひっそりと無限の虚空がみちていました。ひそひそと花が降ります。それだけのことです。外には何の秘密もないのでした。……

坂口安吾『桜の森の満開の下』の一節です。真っ盛りの状態に達した桜の圧倒的な美しさに怯え、不安を抱く男。この不安が一体どこからくるのか、今もまだ秘密のままです。

今月は日本酒「喜正」(きしょう)のご紹介です。

日本酒に関する初めての記述は3世紀後半、『魏志倭人伝』に現われます。古代、酒づくりは女性の仕事でした。「杜氏」(とうじ)の語源は、老母あるいは主婦の尊称「刀自」から来たとする説があります。

現在、日本酒(清酒)は特定名称酒と普通酒のふたつに大別されます。

吟醸酒・純米酒・本醸造酒などは特定名称と呼ばれ、原料・精米歩合・製法の違いを示しています。格付けとは異なり、ランクや優劣を決めるものではありません。原料は米・米麹の他に醸造アルコールを添加するものがあります。精米歩合とは、白米の玄米に対する重量の割合です。精米歩合60%とは、玄米の表層部分を40%削り取り、60%残した状態を意味します。

普通酒とは、特定名称酒の限度外で醸造される清酒の総称ですが、市場に出荷されている清酒の7割以上がこの普通酒です。米・米麹・醸造アルコール、そして糖類(三倍増醸酒)をブレンドできます。

日本酒といえば新潟や伏見、灘や会津などを思い浮かべる向きも多いでしょう。でも東京をお忘れではないですか? 東京都あきる野市の蔵元、野崎酒造株式会社は明治17年創業。越後出身の杜氏、野崎喜三郎氏が独立して開いた蔵です。城山からの清冽な天然水を用い、手間を惜しまず誠実な酒づくりを行っています。喜正は長年、地元の人々と暮らしを共にしてきました。

初代の名前から一字を取って「喜正」

初代の名前から一字を取って「喜正」

最高の肴は、桜

最高の肴は、桜

今回は純米酒を飲みました。原料は米と米麹のみ。米は長野県産の「美山錦」。三大酒造好適米のひとつです。精米歩合60%、度数は15.6%。杜氏は熊谷利夫氏(南部杜氏)。口に含むと馥郁たる香りと上品な甘味が広がります。濃醇でありながら、さらりとした飲み口。切れ上がりの潔さ。マスカットのようなみずみずしい後味。

720ml瓶ならワインボトルとさほど大きさは変わりません。一緒に花見へ連れて行きましょう。春爛漫、花を浴びながらの一献。桜は毎年、春を忘れることなく何度でも再生を繰り返し、同じ風景を再現してみせます。私たちが今眺めているのは、桜自身の過去の記憶かも知れないのです。