酒と豊穣の神・バッカスに仕える巫女、HALがお届けするお酒にまつわる物語
 
 

もしぼくが夏を忘れるようなことがあったら、地下室にはたんぽぽのお酒があり、一日一日全部の日が大きく数字で書かれているんだ……。

レイ・ブラッドベリ『たんぽぽのお酒』(北山克彦訳)の一節です。少年ダグラスが夏休みに見つけた、生きることの喜びと秘密。あれほど待ちこがれた夏は性急に終わりを告げ、思い出はたんぽぽのお酒とともに瓶へと詰められます。

今月はカクテル「ベリーニ」のご紹介です。

発祥の地はイタリア。1948年にヴェネツィアの「ハリーズ・バー」で考案されました。レシピはピーチ・ネクターとスプマンテ(イタリアの発泡酒)、そして少量の砂糖。またはグレナデン・シロップ。

ヴェネツィアに旅行した際、サンマルコ広場からほど近いハリーズ・バーの小さなカウンターに座り、ベリーニを飲みました。時期は11月、午後5時頃。朝から小雨が降り続き、辺りはすでに暗くなりはじめていました。かなり寒く、コートを着込んでの来店。おそるおそる扉を開けると、奥のボックスに男性客が数人、堂々たる体躯をブラック・スーツに包み、小声で何やら相談していました。私の脳裏に流れるゴッド・ファーザーのテーマ。妙に緊張したことを覚えています。

目立たない看板、見逃さないで

目立たない看板、見逃さないで

絶妙な色合い

絶妙な色合い

今回は銀座1丁目の[スタア・バー・ギンザ]、岸 久氏にお願いしました。国内外において数々のコンクールで優勝した岸氏がつくり出す宝石のようなカクテル。最高のものを提供するためには決して妥協を許しません。

使用する桃は福島県産の「あかつき」。皮をむき、適当に刻みます。これとは別に、桃をつぶして濾したジュースをあらかじめ冷凍にした「桃氷キューブ」と桃ジュースを器に入れ、ハンドミキサーで攪拌します。それを粗めのざるで濾すと、やっと桃のペーストが出来上がります。これをシェークし、ミキシンググラスでシャンパン(今回はモエ・エ・シャンドン)と混ぜ合わせたのち、大きなカクテルグラスに注ぎます。

このレシピは岸氏の著書『スタア・バーへ、ようこそ』から抜粋したものですが、ここまで手をかけていたのかと驚きました。

グラスを口元に近づけただけで、シャンパンと桃の香りが届きます。口に含むと、桃本来の自然な甘味と酸味のバランスが楽しめます。なめらかな口当たり、飽くまで飲みやすく、しかしボディ・ブローの如く、徐々にアルコールが効いてきます。

和毛を生やした白桃が行儀よく店頭に並ぶ頃、ベリーニの季節が始まります。桃色のグラスの中には、夏への期待がいっぱいに詰められています。陽の長さに時間の感覚を失い、夢中で遊んでいたのもつかの間、やがて太陽が色褪せているのに気づきます。季節が終われば、ベリーニはまた来年の夏までおあずけです。移ろいゆく夏を舌の上に刻み込むように、今夜も居心地のよいカウンターでベリーニを注文するのです。