酒と豊穣の神・バッカスに仕える巫女、HALがお届けするお酒にまつわる物語
 
 

だから、事件についてもぼくについても忘れてくれたまえ。だが、そのまえに、ぼくのために〈ヴィクター〉でギムレットを飲んでほしい。それから、こんどコーヒーをわかしたら、ぼくに一杯ついで、バーボンを入れ、タバコに火をつけて、カップのそばにおいてくれたまえ……

 レイモンド・チャンドラー『長いお別れ』(清水俊二訳)の一節です。〈ヴィクター〉とは、主人公フィリップ・マーロウが友人と共にギムレットを飲んだ店の名前。その友人から届いた手紙には、最後の依頼が書かれていました。マーロウはそれをひとつずつ愚直な忠実さで実行していくのです。

今月はカクテル「ギムレット」のご紹介です。

 ギムレットとは錐(きり)又はコルク抜きを意味します。発祥には諸説あり、イギリス海軍の軍医・ギムレット卿が提唱した説、南洋の植民地に配属されたイギリス人が考案したという説など様々です。ちなみに『長いお別れ』レシピは、ジンとコーディアル(加糖)・ライム・ジュースを半分ずつ。かなり甘いカクテルが出来上がります。最近はライム・ジュースの代わりに生のライムを使うのが主流です。

ステーションホテルの文字の重み

ステーションホテルの文字の重み

多くの人の手から手へとグラスが繋ぐ

多くの人の手から手へとグラスが繋ぐ

 今回は丸の内1丁目の[バー・カメリア]、鈴木雅人氏にお願いしました。カメリアは東京駅丸の内南口の東京ステーションホテル内にあります。外壁の赤れんがが目を引くこのホテルが建てられたのは1915年(大正4年)。90年の歴史を誇る建物を改修・復原するため、来年4月から長い休業期間に入ります。

 ホテルのロビー奥、真紅の絨毯が敷かれた階段を上り、客室をそっと通り抜け、細く長い廊下を渡ると、窓から駅構内が俯瞰できます。数々のバンケット・ルームを横目で見ながら突き当たりまで進むと、バー・カメリアの小さな扉がそこにあります。

 タイトな黒いカウンターには無駄なものが何も置かれていません。低い背凭れを掴んで椅子に座ると、膝がとても楽なことに気付きます。カウンター下の部分が革張りのソファーのように仕上げてあるのです。BGMは無く、代わりに列車の発着音と、解体された客の会話が心地よく耳に入ってきます。

 鈴木氏は客の注文に対して速やかに応えます。ライムを二等分し、中央から2㎜厚の輪切りを一枚作り、皮半分を軽やかな所作で果肉から切り離していきます。ジンはビフィータを用い、砂糖を1tsp。残りのライムをすべて搾り入れ、ハード・シェイクして注ぎ、先程のライムの輪切りを飾ると、うっすらと白い靄がかかったグラスに浮かぶ満月。

 この空間は、否応無しに旅情を掻き立てられます。此処が東京駅ではなく、今いる場所から遥か遠く離れ、知らない街の知らない店でひとり飲んでいる──そんな気さえしてきます。カウンターの客は各々自分だけの列車に乗り込み、自分だけの行き先を掲げ、空想の地へと旅に出ます。目の前のグラスが唯一、現実へと引き戻してくれる切符なのです。