酒と豊穣の神・バッカスに仕える巫女、HALがお届けするお酒にまつわる物語
 
 

 自責と不安の念にかられて、彼は這いまわりはじめた。すべてのものの上を這って歩いた。壁も家具も天井も這った。もう部屋全体が彼を中心にぐるぐるとまわりはじめたとき、グレゴールは絶望のうちに天井から下の大テーブルの真ん中に落ちた。……

 フランツ・カフカ『変身』(高橋義孝訳)の一節です。ある朝、自分が巨大な虫に変わってしまったグレゴール・ザムザ。一家の経済的支柱であった彼はもはや、家族にとって理解できない危険な存在になっていくのです。

今月は「グラッパ」のご紹介です。
EUではグラッパをブランデーとして認定しています。

ブランデーとは本来、葡萄を発酵させたのち蒸留した酒につけられた名称です。しかし現在では、果実を主原料にする蒸留酒すべてをブランデーと呼びます。グラッパは、葡萄からワイン用の果汁を搾ったあとの残り滓(ヴィナッチャ)を再発酵、蒸留したものです。

ヴェネツィアを州都にもつ北イタリア・ヴェネト州の北西にあるバッサーノ・デル・グラッパ(グラッパの山の下)という町では、グラッパによる町興しが盛んに行われています。グラッパの語源はこの町の名前だという説もあります。

 冬の寒い北イタリアを中心に生産・消費されたグラッパは、貧しく酒を手に入れるのが難しい人々に飲まれ親しまれてきました。捨てられるはずの廃品を使い、いかに多くのアルコール分を抽出するかに重きが置かれ、肝心の味が顧みられることはありませんでした。

 この偉大なる安酒に大きな転機が訪れます。ヴィナッチャの品種を単一にして素材の由来を明らかにし、細心の注意を払い蒸留することで、素晴らしく香り高いグラッパを生み出しました。その高品質グラッパを美しい繊細な瓶に詰め、相応の値段で販売したのです。

 さらにイタリアの名門ワイナリーが、自分のところのワインに使ったヴィナッチャを委託蒸留し、オリジナルブランドで出荷。これをワインフリークが放っておく訳がありません。こうしてグラッパ革命は大成功を収め、洗練された高級酒のイメージを確立したのです。

高さ16cmほどの小さなボトル

高さ16cmほどの小さなボトル

アレクサンダーは ボッテガ社の名門ブランド、説明書付き

アレクサンダーは
ボッテガ社の名門ブランド、説明書付き

 今回はヴェネト州・ボッテガ社の「グラッパ・ディアマンテ」を飲みました。ディアマンテ(ダイヤモンドの意)は、ヴェネト州古来の葡萄品種であるプロセッコ種のみを用いています。葡萄の房のボトルは、ヴェネチアングラスで知られるムラーノ島の職人が手吹きで作製。ひとつひとつの形が微妙に異なります。

 度数は38度。無色透明。香りも味も、遥か遠くに見える山の稜線を望むような不確かさを感じます。何処まで行っても届かない何かを追う、切ない心持ち。常に飲み手と等間隔の距離を保ち、踏み込んでこない印象です。

 ワインの醸造過程の廃棄物でしかなかったヴィナッチャは、自身の奥深くに眠る能力を引き出され、再び華やかな変身を遂げました。限界まで搾り尽くし、最後に行き着くところがグラッパであるのなら、それは葡萄にとって究極の完成形なのかも知れないのです。