酒と豊穣の神・バッカスに仕える巫女、HALがお届けするお酒にまつわる物語
 
 

 頭であれこれと考えちゃいけない。能書きもいらない。値段も関係ない。多くの人は年数の多いほどシングル・モルトはうまいと思いがちだ。でもそんなことはない。年月が得るものもあり、年月が失うものもある。エヴァポレーション(蒸発)が加えるものもあり、引くものもある。それはただ個性の違いに過ぎない……

 村上春樹『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』の一節です。ラフロイグ蒸留所のマネージャーが語ったアイラ的哲学。自分に合った酒との出逢いは、人生の伴侶を得た悦びに似ています。それはいつも傍に寄り添い、心をなごませ、慰めるのです。

 今月はシングルモルト・スコッチ・ウイスキー「ポートエレン」のご紹介です。

 スコットランド西海岸に散らばる島々のひとつ、アイラ島。小ぢんまりとしたこの島の海辺には7つの蒸留所が点在しています。しかし、かつては8つ目の蒸留所がありました。
それが、ポートエレン蒸留所です。

 1825年操業。幾度となく経営者が変わり、停止と再開を繰り返しました。1983年、閉鎖。すでにポットスチルは取り外され、現在はモルトスターと呼ばれる麦芽だけをつくる精麦専門の施設として、他の蒸留所に麦芽を供給しています。

 ポートエレンは、新たに造られることはもうありません。いま飲んでいるのは、蒸留所が閉鎖する前に造った在庫です。在庫が尽きてしまえば、二度と口にすることもなくなります。我々は、偉大なる父の遺産を徐々に食い潰している駄目息子と同じ立場に立たされています。

4825番目のボトル

4825番目のボトル

香りは正露丸に似ている?

香りは正露丸に似ている?

 今回はオフィシャル・ボトルを購入しました。所有者のディアジオ・モエ・ヘネシー社が瓶詰めしたものです。年数は24年、1979年に蒸留されました。2003年に9000本限定で瓶詰めされたうちの一本です。

 これに対してボトラーズ・ブランドがあります。
蒸留所から樽ごと原酒を買い取り、独自に瓶詰めして販売したものです。
シングル・カスク(たったひとつの樽から瓶詰め)、カスク・ストレングス(加水せず、樽出しの状態。度数はかなり高い)、ノン・チルフィルター(低温濾過処理を施さない)など、樽ごとの個性を引き出した評価の高いボトルも数多く存在します。

 アイラ島のセオリーに則り、まずはストレートで飲んでみます。
 カスク・ストレングス、度数57.3度。色は薄く澄んだゴールド。特有のピート香の裏に甘い香りが隠れています。口に含んだ途端、刺すような刺激。アルコールが出口を求めて鼻腔へと一気に昇ろうとします。塩辛さは海水を感じさせ、軽い苦みの後、甘さがほんのりと舌を覆います。

 なぜ、ポートエレンは操業を完全に停止したのか。喪失は、いつも甘く切ないものです。

 ポートエレンを飲むとき、失われた古代都市を思い起こします。いにしえの住人に棄てられ、崩壊を待つだけの苔むした遺跡。時間はすべてを無に帰すべく経過し、しかし記憶は静かに抵抗を試みようと、変わらぬ姿をいつまでも追い続けるのです。