酒と豊穣の神・バッカスに仕える巫女、HALがお届けするお酒にまつわる物語
 
 

「きみの頭をぼくの口の中に入れて」と猫は言った。
「そして待つんだ」
「長くかかる?」とハツカネズミはきいた。
「だれかがぼくのしっぽを踏んづける時までだよ」と猫は言った。
「ぼくには迅速な反射運動が必要なんだ。でも心配いらないよ、しっぽはぐんと伸ばしっきりにしとくからね」‥‥。

 ボリス・ヴィアン『日々の泡』(曾根元吉訳)の一節です。自殺願望のハツカネズミと、その協力に大して気乗りがしない猫。しかし猫の背後から、盲目の孤児院の少女達が、声高らかに歌いながら近づいてくるのです。

 今月は、上面発酵濃色ビール、スタウトの代表格ともいえる「ギネス」のご紹介です。

 アイルランドの首都、ダブリン。1759年、空き家だった醸造所を9000年契約という途方もない年数で借り受けたアーサー・ギネス。大切な原料のひとつである水は、氷河湖と豊かな森を懐に抱くウィックロウ山脈の源泉水で、作り手らは“蒸留酒”と呼び、慈しんでいます。独特の方法でローストしたアイルランド産の大麦と、雌株のみ使用されるホップ。そしてアーサーが持っていた初代酵母の子孫を使って、現在も発酵させています。

 世界150カ国で販売されるビッグ・ブランドにまで成長したギネス社の努力のひとつは、仕込み缶ともいえるドラフトギネス缶です。度数は4.5%。まずは飲む前に3時間以上冷やし、330ml全部が注げるグラスを用意しておかないと、楽しみは半減します。

 缶の中には直径3cmの白いピンポン玉のようなものがぷかりぷかりと浮かんでいます。この白い玉が開缶と同時に絶大な働きをすることによって、ギネスには欠かせない美しい泡を確実にサージングしてくれます。このフローティング・ウィジェット(仕掛け)にギネス社は、何十年という月日と10億円を超える費用を要しています。

口からお迎えに

口からお迎えに

白くて丸い働き者

白くて丸い働き者

  しかし、何といっても、パーフェクト・パイントを味わうためには、パブに足を運ぶことをおすすめします。ギネスを1パイント注文し、漆黒の山の頂に冠雪のコントラストが完成するのをじっと待ちましょう。仕上げに泡で描かれるシャムロック(三つ葉のクローバー)。アイルランドの国花でもあるシャムロックは、パトリキウス(聖パトリック)と深い関わりがあります。

 幼少時、奴隷としてアイルランドに連れて来られたパトリキウスはある日、神の御告げを聞き、牧場から脱走。後年、キリスト教を布教するために、司教として再びアイルランドを訪れます。元々存在する土着のケルト信仰を頭から否定するのではなく、キリスト教との融和を図ろうとした彼は、国花であるシャムロックを手に、三位一体を説きました。聖パトリックの命日である3月17日はアイルランドの祝日にもなっています。

 秋の雨音を背中で聞きながら、口許についた泡を舐め取れば、子供の昔にかえったようです。いずれはこの泡と同じく、我々は跡形もなく消えていきます。生きることは、死ぬまでの壮大な暇つぶし。今夜一晩を共に過ごす相手にギネスを選ぶのは、最善の方法だと思われるのです。