酒と豊穣の神・バッカスに仕える巫女、HALがお届けするお酒にまつわる物語
 
 

「百年待っていて下さい」と思い切った声でいった。
「百年、私の墓の傍に坐って待っていて下さい。きっと逢いに来ますから」
自分はただ待っていると答えた‥‥。

  夏目漱石『夢十夜』の一節です。この言葉通りに百年後、真っ白な一輪の百合の花と化し、骨の芯まで沁みる香りを伴いながら、再び逢いに来るのです。

  今月は、愛知県の日本酒「醸し人九平次」のご紹介です。

  名古屋市にある萬乗(ばんじょう)醸造は、江戸時代創業の造り酒屋です。十五代目・久野九平治氏は26歳で家業を継ぐまで、東京でアルバイトをしながら 劇団員やパリコレクションのモデルを務めていました。

 蔵へ戻った彼は、エンジニアの経歴を持つ同級生の佐藤彰洋氏を杜氏として迎え入れます。まったく知識のない若者二人が一から酒造りを学び、手探りで理 想の酒を造るためにした努力とは、麹造りに全精力を傾けることでした。

 酒造りは昔から「一麹、二酛(もと)、三造り」といわれます。
麹とは、麹菌というコウジカビの胞子を、蒸した米に繁殖させたものです。麹の役割は、米の主成分であるでんぷんをブトウ糖に分解し、酵母がアルコール 発酵を行なえる下地をつくることです。なぜなら、酵母はでんぷんから直接アルコール発酵を行えないからです。日本酒造りにおいて、麹菌は重責を担って います。

 さて、ようやく酵母の出番です。麹が分解してくれたブドウ糖をエネルギーに、懸命にアルコール発酵を始めます。精米歩合の高い米のなかに酵母が置かれ ると、アミノ酸などの有機酸を生成します。米が削り込んであればあるほど、酵母は苛酷な環境で生きようともがき苦しみ、フルーツにも似た吟醸香をつく り出します。

ボトル上部には“希望の水” と書かれている

ボトル上部には“希望の水”
と書かれている

シャンパングラスが似合う酒

シャンパングラスが似合う酒

  苦心の末に「醸し人九平次」を完成させた久野氏は、行動を起こします。リュックに酒瓶を詰め込んでフランスへと渡り、パリの三ツ星レストランのソムリエに直接売り込んだのです。現在ではホテル・リッツをはじめ、名だたるレストランのワインリストに載せられています。

 今回は、別誂(べつあつらえ)純米大吟醸を飲みました。度数16.5度。精米歩合は35%。最高の山田錦を65%削り、ぎりぎりまで磨き上げています。

 はっとするほど際立つ香り。口に含むと、舌の上で微粒子の粉砂糖がゆっくりと溶けていく感触。わずかなとろみがソーテルヌを思わせます。リンゴの蜜の部分を抽出したような後味。甘いだけでなく、コクだけでもキレだけでもなく、すべてが備わっている。そして、手作り由来のかすかな土の存在を感じます。

 日本の長い歴史のなかで、常に傍に寄り添うように日本酒はありました。
日本酒は、我々日本人が飲む酒です。昔と生活の形は変わりましたが、日本酒は その本質を変えることなく、共にまた寄り添える日をずっと待っているのです。