酒と豊穣の神・バッカスに仕える巫女、HALがお届けするお酒にまつわる物語
 
 

 未来の記憶──そんなものがあるのか? またもどってくる何ものかの記憶なのか? 自然界の永遠回帰というもの、いろいろの時代の永遠なる合流点というものが存在するのか?……

 エーリッヒ・フォン・デニケン『未来の記憶』(松谷健二訳)の一節です。それは過去ではない、未来の記憶。科学は進歩し、次々と新たなものを生み出しているかのように見えて実は、あらかじめ我々のなかに深く刻まれたものを思い出しているだけかも知れないのです。

 今月は、新たなるもののことを書きたいと思います。

 以前、バッカスレポートでご報告の通り、銀座のクライスラーが昨年、閉店しました。そこでチーフバーテンダーを長く務めていた加賀谷治男さんが、待望のお店を銀座に出しました。

 名前は、Bar A day。届いた案内状に喜びながらも、この時点で私の妄想は、もの凄い勢いで膨れ上がっていました。場所は1階か2階、もしくは地下? 席数は、カウンターは、酒の種類は、内装は、照明は……。もうきりがありません。

この看板を目指して

この看板を目指して

酒瓶置き場

酒瓶置き場

  6月6日、開店の日。住所だけを頭に入れていざ8丁目へ。しかしお店は見つかりません。地図も電話番号もないまま、行きつ戻りつ、頼みの綱の番地表示を探し、この辺のはずだと路地の奥を見ると、目指す灯りがありました。

 人が斜にならねばすれ違えないほど細い通りは、薄暗がりに包まれ、静かな昂揚感で充たされていました。迷路仕立てのこの道は、取り立てて工夫することなく、すでに特別な場所としての機能を備えています。秘密結社か地下組織のアジトへ向かう以外は決して踏み込まないと思うような路地なのです。

 重い扉を押し開けると、中から早速懐かしい声が掛かります。

 L字型のカウンターに8つの黒い椅子。カウンターと椅子との相関は、床に足の裏が完全に着き、なおかつカウンターへ無理なく肘が落ち着く高さ。

 高い天井は、限られた空間に開放感を与え、バー全体の密度が濃くなりすぎるのを緩和しています。壁には大きく引き伸ばされたクライスラーの写真。人との繋がりを大切にする、いかにも加賀谷さんらしいやり方です。

 客層は、新旧取り混ぜ、いずれ劣らぬ猛者揃い。これらひと癖もふた癖もある面々に囲まれて、さながら猛獣使いのように酔客を手際よくしつけ、そのご褒美に1杯の酒が与えられます。

 もしかしたらこのバーは、ずっと昔からここにあったんじゃないのか? 私はここへずっと以前から通い続けていたんじゃないか? 鼻だけは新しい匂いを嗅ぎ取りながら、既視感と、使い込まれた革の手袋のような感覚を味わっていました。

 新しくできたお店に伺うことは、多くの場合、軽い失望が伴います。客は以前の店の亡霊から逃れられず、過剰な期待を抱き、意地悪な小姑の視線で眺め、すべてを比べたがります。

 A dayは、あらかじめこの場所にできることを約束された店であるかのように、気負わず、自然な振る舞いで私達を迎え入れるのです。