酒と豊穣の神・バッカスに仕える巫女、HALがお届けするお酒にまつわる物語
 
 

 砂の城がその形を保っていることには理由がある。眼には見えない小さな海の精霊たちが、たゆまずそして休むことなく、崩れた壁に新しい砂を積み、開いた穴を埋め、崩れた場所を直しているのである。……。

福岡伸一『生物と無生物のあいだ』の一節です。砂の城は私たち人間の肉体そのもの。この肉体は確たる実体があるのはなく、たまたまそこに密度が高まっている分子のゆるい「淀み」程度のもの。内部では驚くべき速さで、分子レベルの入れ替えが絶えず行なわれているのです。

今月は、店とは誰のものかについて書きたいと思います。

バッカスレポートVol.12でご紹介したTHE BAR WATANABEのマスター、渡邉秀行さんが亡くなりました。64歳でした。どんなに素晴らしい人にも死は平等に訪れるんだとわかっていても、いまだに現実を直視することができません。

渡邉さんは実にお洒落な人でした。真っ白な美しい顎鬚をたくわえた姿は、小柄な水戸黄門といった風情です。オールバックにした銀髪は威圧的で、凄みのある表情を更に際立たせ、容易には近づきがたい印象です。夏はアロハシャツ、冬には愛らしいテディベアが編み込まれたカーディガンを着て、扉の向こうから現れます。

まずはカウンターに座り、一杯飲みながら若いバーテンダーから報告を受けます。誰から電話がありました、誰がいらっしゃいました、などを一通り聞いたあと、おもむろに私たちの隣に座ったりするものだから、一瞬、緊張が走ります。

伏し目がちに、顔色ひとつ変えず、ぼそぼそと(時に聞こえないほどの声量と速度で)語られる言葉を聞き逃すまいと私は集中し、想像力でつなぎ合わせ、会話を成立させようと努力します。「え?」などと聞き返したりするのさえ失礼に当たるような、そんな気がして、だが結果として努力はいつも報われず、間抜けな受け答えに終始するのがおちでした。

渡邉さんが飲むのはオールド・オーヴァーホルトのソーダ割りでした。なぜそれを?の問いに、彼は「頼り無い酒ですから」と答えてくれました。ここに彼の何ともいえないおかしみ、人柄みたいなものが凝縮されている思いがします。

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客に挨拶を終えると渡邉さんは奥へと引っ込み、バーテンダーとしての正装に身を包みます。白いワイシャツに黒いベスト、胸には彼の歴史を語る数々のピンバッジが輝きます。客の正面に立ち、まるで何事もなかったかのように「いらっしゃいませ」と慇懃に目礼するのです。

渡邉さんはとても照れ屋でした。心配する素振りなど表には出さないくせに、いつでも気に掛けてくれる人でした。私の朗報を自分のことのように喜び、めったに見せることのない笑顔を見せてくれました。店でふるまうはずの苺を、タッパーに詰められるだけ詰めて持たせたりするような、不器用極まる人でした。

渡邉さんがいなくなった店は、今も何ひとつ変えることなく雰囲気を以前のままに留め、今夜は来ないけど明日は来るのかなと違和感なく思えるような状態を、残されたバーデンダーが維持しています。

渡邉さんは不世出のバーテンダーでした。そしてあの店は間違いなく渡邉さんの店でした。けれども時は流れ、WATANABEという名の店だけが残り、別のバーテンダーが店を仕切り、年を追うごとに客も入れ替わり、渡邉さんと客が共に時間をかけて重ねあげた何かが、やがて崩れていきます。

渡邉さんの思いをその店に求め続けるのは、欠けてしまったために二度と完成できないパズルをつくり続けるようなものかも知れません。どれほど中が入れ替わろうとも、変わらぬ店の佇まいを見ることはできる。記憶とは残酷なものなのです。