酒と豊穣の神・バッカスに仕える巫女、HALがお届けするお酒にまつわる物語
 
 

 日本酒っていうやつは、本当は労働酒なんです。汗水垂らして飲むと、どんな濃い汚い酒でもうまいんです。いまの時代だから、淡麗辛口が支持されとるんです。軟弱というか、年中変わらん温度の所に住まいしとる人はね、やっぱり淡麗になってくるんです。……

『魂の酒』農口尚彦さんの言葉です。時代も環境も生活スタイルも変化し、日本人の嗜好が大きく変わってゆく中で、味という得体の知れないものをひたすら追い求めるのです。

 今月は石川県加賀市の日本酒、常きげん(じょう・きげん)のご紹介です。

NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」をご覧になった方も多いでしょう。現在、常きげんはすでに入手困難な状況にあります。単にテレビの影響というよりは、その内容の凄まじさに視聴者は突き動かされたのではないでしょうか。能登杜氏、農口尚彦氏。酒造り61年の壮絶な生き様を垣間見たならば、彼の造った酒を一度は口にしてみたいと願うのは自然の成り行きのように思えます。

鹿野酒造は平成10年より農口氏を迎え、山廃仕込を中心とした酒造りになりました。

山廃の醍醐味は、乳酸を添加しないことにあります。普通、清酒酵母を増殖させるためには、PH4(酸性)の環境が必要です。空気中からさまざまな微生物が入り込み、異常繁殖するのを防ぐために高純度の乳酸を入れ、人工的にPH4の状態をつくります。これを「速醸」といいます。安全に、しかも短期間でできるため、清酒の大半は速醸?からつくられます。

山廃は、この乳酸を添加しません。自然にできる優良乳酸菌の作用だけで、PH7(中性)の状態からPH4の環境をつくり出します。確かな技と経験を基に徹底した温度管理をし、速醸の2~3倍の期間をかけ、手間隙を惜しまずにつくります。

入手するのに一苦労

入手するのに一苦労

美しい山吹色

美しい山吹色

今回は、山廃仕込純米酒を飲みました。精米歩合65%、度数は16.5度。仕込水は「白水の井戸」を使用しています。この井戸は、蓮如上人(1415-1499)が大地を杖で突き刺して水を湧かせたという伝説があります。

透明なグラスに注ぐと、うっすら黄色味がかっているのが見て取れます。この色は時に嫌われるため、一般的には活性炭素で濾過して色を抜く傾向にあります。こうすると無色透明な水のようになりますが、色と同時にうまみも取り除かれ、没個性化していきます。

口に含むと、まず舌が米の味とともに力強さや深いコクを感じ取ります。喉をスッと通り抜け、ほのかな香りだけを残して鮮やかに切れ上がります。コクとキレは決して両立しないという思い込みをあっさりと裏切られ、なぜなのか確かめたくてさらに杯は進みます。

食事を引き立てる懐の深さも持ち合わせています。ご飯に合うものなら何を合わせても楽しめます。常温から始めて徐々に冷やしていくと、切れ味が冴え冴えとしてきます。

農口氏は「設計」という言葉で、酒造りを表現します。味は可視化も数値化もできませんが、頭の中には、緻密で難解な設計図が描かれています。その完成された酒を飲むとき、我々の舌に新たな基準が示され、お前はこれをどう解くのだ、と無言のうちに問いかけられるのです。